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偉い人っているのかな?

偉い人とはどんな人?

また私の勝手な持論を書いてしまいます。

「偉い」

私は昔からこの言葉があまり好きではなかった気がします。

今は確実に好きではないのは確かです。

言葉自体の深い定義は別として、何となくなのか分かりませんが、好きではありません。

私は「偉い人」はいないと勝手に思い込んでいるからかも知れないし、またはそう言われる人と出会っていい経験が無いのかもしれません。

でも現代では「偉い人」とは「社会的地位が高い人」を指す時に良く使う気がします。

これに私は日本独特のいやらしさを感じてしまうのです。

縦社会独自の。

たしかに縦社会でも良きものはあります。

例えばヨーロッパの縦社会でも紳士的など「マナー」という気品がいい風にでれば美しいものにもなる時がある気がします。

日本でいうならば「礼儀」ですね。

今はもはや欠片しかありませんが。。。

なぜでしょう?

単純に一般的にピラミッドの上にいる人たちがもう救いようのない人達ばかりになったからのような気がします。

ピラミッドの上にいる人たちとは別に政治家とかそこまで絞らなくても簡単です。

「大人」です。

今いる大人たちがほんのわずかな時間で日本を崩してしまったのではないでしょうか。

今の子供は。。。とか、今の若者はとか。。。

私は「前責任大人にある」と思っています。

特に私は家庭を持ち3人の息子を育てていると実感します。

この子達は私を一番初めの手本にしています。子供は親を良く見てます。

思った以上に色々なものを感じて、吸収しています。

つまり私が胸を張って正しく生きていなければ、子供は道を見失う可能性が高く、親は子供に起こるすべての不幸は身を挺しても守らなければいけません。

今の時代どうでしょう。

こんな不景気なのに相変わらず「偉い」と言われている方達は接待と言って銀座にお出かけです。

それが顕著に現れる国ほど、心が貧しい人が多い気がします。

話はそれるかもしれませんが、以前こんな討論をしたことがあります。これは縦社会を実感した討論です。

ある方が分が悪い仕事は下の者にやらせればいいと。私はそういった発言をする根拠をたずねると、その方は

「俺もそうやってきたんだ、だからそういう風に下のものがやるのは当然だ」

と。

私はこの方がひどく情けなく見えました。でもこういった考え方をしてしまう方は多いような気がします。

家族でも。学校でも。

先生は偉い。親は偉い。

自分で言うのもなんですが、私は子供と遊ぶのが得意です。学校の先生に怒られるほど子供たちが周りに集まってきます。

自慢に聞こえてしまうかもしれませんが、私が言いたい事は一つです。

「私は偉いと思っていない」

これが一番の原因ではないかと思います。そして「偉い」ということは人とのつながりをさえぎるものであってもつなげるものではない気がするのです。

私は人と会う時誰でも、相手を尊重するようにします。これは「偉い」という感覚とは全く違います。

相手と出会えた事、話せたことを「光栄」に思うのです。

誰でも少なからず、苦しみを抱えていて、悩んでいます。

自分の方が「偉い」とかそんな事誰にも関係ありません。「立場」を出してしまったら、その時点で同じ世界にはいないと思うのです。

「親」としての立場より、「友達」としての立場のほうが子供は受け入れやすく、立場を出さず、人として尊重できたら心を分かち合おうと思えるのではないでしょうか?

ただ全てがみんな同じと極論はいいません。

持っている役割がそれぞれ違います。その役割における責任の差が敬う事につながるの気がします。

先ほども言いましたが、子供の不幸は親の責任があると思います。当たり前のように大切にしなければならない宝物です。

それを守るという責任。これの違いが子供と親かと思います。守られる側と守る側の立場ではなく、役割だと思います。

なんだか言葉じりの問題のようになってしまいますが、なぜあえて「立場」という言葉を嫌うかと言うと、そこに「偉い」という言葉が生まれてしまう気がするからです。

守られる側は守られる為に親の言う事を尊重する。守る側は守ってあげたい為に、色々教え、気持ちを育む。

いずれ自分が自分の事を守れるまで、誰かを守れるようになるまで、教育をする。

これは偉いとか偉くないとか一切意味も必要もないと思います。

言う事きかせるために、示しがつかないために立場を利用するのは、邪道の様な気がします。

言う事きかせられないから、示しも何もないから立場を利用するのではないのか?と。

私は幼少の頃アメリカに住んでいました。その時感じた事はアメリカでは全てでは決してありませんが、立場とか偉いというものは基本的にありません。

誰でも家族として迎え入れる。こんな暖かい感覚が今でも残っています。

一昔前の日本でもあった気がします。家に鍵もかけなかった時代に。

今はもうありません。

世間体やら、立場やら。日本の美しさである礼儀すらもうありません。

流行だけ取り入れ、肝心な魂は抜けていく。腐ってしまった日本がアメリカから学ぶべきものは表面の流行ではなく、その失われた温かさではないでしょうか?

偉い、立場には温かさがない感じがします。

日本人なのに日本を否定して、アメリカの真似ばかり。格好ばかり気にしたり。

もし流行が本当にいいものであったなら、こんなにも冷たい国になっていたでしょうか?

洋楽が好き、ヒップホップが好き。でも英語分からない。表面だけマネして、中身がない。

古いかも知れませんが格好よさなどというものは着飾るものではなく、自然と出てくるものかと思います。

話はそれましたが、大人がきちんとした生きざまを見せない限り、その次の世代は決して良くなることはない気がします。

まず大人たちでお手本を示し、胸張って生きていきましょうよ。

今の日本の「偉い人」は「裸の王様」です。

それをみて育っていく次の世代は「裸の王様」にならないはずはありません。

誰の為に、何のために偉くなるのか。偉くなりたい。そんな貧しい夢大人が持っていたら子供は可哀そうです。

ちなみに私が日本の歴史で何度も滅んだ社会は全ていま使われている「偉い」というものが関連している気がします。

もし思いやりのある方達が社会を支えていてくれていたら、滅ぶことはなかったのではないでしょうか?

立場を強引に使った今の日本の様な社会も今後危ないかも知れません。

でもそれを支えるのは、私を含め大人です。

日本だっていい時代はあったはずです。礼儀礼節を大切にしながら胸張って生きていけるよう私も頑張っていきたいと思います。

それではまた!

追伸・最後に私が「偉い人」という言葉をあえて使うのならば、それは「人を幸せにした人です」


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